留学を終えて約一月半が過ぎました。本稿がこのJICホームページに載る奨学生として最後のレポートだと思うと、感慨深く、そして感謝の念に浸る思いです。この「かけがえのない」という言葉では足りないくらい輝きに満ちた10か月を振り返ると、JICを通して出会ったたくさんの皆様の顔が浮かびます。この報告書を書き上げた今、多くの方の愛情に支えられた私の留学は幕を下ろします。
現在系、進行形で語られていたこれまでとは違い、最終レポートは日本に腰を下ろし、遠く離れたシャンペーンの日々を想起して書かれるためにどうしても違った趣になっていると感じます。私は帰国後すぐに、かの地から携えたゆったりと流れる時間を「矯正」するために都内の病院で長期の実習を行いました。じっとりとまとわりつくような湿気、コンパクトな建造物、速くて正確な鉄道、人があふれる交差点の中にあって、幾度かその環境に静かな眼差しを向けました。再び日々に追われ新たなスタートを切った私は、せわしなくまわる大きな歯車の一部に戻ったような感覚にあります。きっとここにもすぐに慣れてしまうでしょう。留学中のあの高揚感がノスタルジックに思い出されます。できるだけはやく慣れなければいけません。半ば強引に自分をこの環境に順応させた次は、やるべきことに一生懸命取り組みます。目の前のことを全力でやることが、あのマヤの村やクリーブランドの病院、そしてその先へと直につながっているのです。国内外に関わらず今私のいる場所で信念を持って行動を積み重ねます。そうすることこそ私がこの留学で学んだことです。
最終レポートとして、春学期の講義、フィールドワーク、最後の振り返りをここに報告させていただきます。
(写真1 大切な写真:佐藤先生アリスさんそして愛すべき40期の皆)
<講義ついて>
履修した講義
ENG498 Sustainable Development Project
GCL188 Doctor and Patient
MCB320 Mechanism of Human Disease
MCB246 Anatomy and Physiology
・ENG498 Sustainable Development Project
留学中の私の集大成といえる講義です。後半は主にリサーチプロジェクトのポスター発表に向けてグループで現地での調査内容を具体的に詰めていきました。年齢も人種も専門も異なる構成の集団で、共通のビジョンをもってプロジェクトを前進させていくためにはどうすればよいかというオリエンテーションを経たにもかかわらず、私のチームにはいくつもの困難がありました。途中1人メンバーがいなくなり、2度教授から解消の提案がされ、数えられないほどの涙が流れました。皮肉にも、理論とその実践は全く別のことなのだと痛い程学ぶことになりました。最終的にはかろうじて発表までこぎ着けましたが、発表の5分前まで私は「もう止めだ」と反発し合うメンバーの間を取り持ち説得し続けました。はっきり言って私たちのグループは持続可能ではありませんでしたが、忘れられない講義となりました。
・GCL188 Doctors and Patients
今期の中でとても楽しみな時間でした。課題が少し多くて大変と感じることもありますが、先生のチョイスがピカイチなのか、
文学作品の読解・ディスカッションの他に、後期は製薬会社のコマーシャルに関してのレポート、プレゼンテーションを行いました。日本をはじめ多くの国で制限されている医薬品のコマーシャルがアメリカでは日常に溢れています。ユニークなものからシリアスなものまで、そのアプローチの仕方は様々ですがいずれも人間の健康への欲求に訴えるものでした。健康や病気が市場原理の中でどのように存在するのか、その特徴や問題点を探るのは新鮮でした。医療という世界は医師という職種以外にも多くの病院スタッフはもちろん、製薬や機器、さらに自治体や国というように多くのキャストが携わっています。さらに「病気」というものへの一般的な認識はその地域や時代によって大きく異なっているのでした。広い視点で医療や人間というものを見つめる視点は私にとって貴重でした。
(写真2 シカゴにて:ピカソのオブジェの上)
・MCB320 Mechanism of Human Disease
前回に引き続き講義毎に一つの疾患を扱っていきました。Premedの授業ですが、実際にカール病院で臨床や研究を行っている現役の脳神経内科医の講義が6コマほど続きました。Medical schoolでも教えていると言っていたのでおそらく同じスライドをつかっているのでしょう。普段MCBの細かい基礎生物学や基礎医学の講義をたくさん受けている学生たちにとって、このように臨床的な視点を持った講義はモチベーションにつながるだろうと思います。どうしても日本の医学部の講義と比較してしまうのですが、この先生は本当にプレゼンが上手でした。普段から多方向からの評価に曝されていること、また授業時間が短いことが要因の一つでしょうか。エネルギー溢れる講義は、90分は続けられないだろうなと思う程毎回がエキサイティングでした。
・MCB246 Anatomy and Physiology
前回同様、後半は免疫系や血液、泌尿器や生殖器の解剖生理を学びました。以前も載せたようにFollingerというキャンパス最大のホールで行われます。アメリカの大学の特徴として、このような講義中心の大規模な講義でも必ず実演の時間やグループワークを取り入れようとます。質問がしづらい分、メールでの質問に加え教授のブログにコメントする形で質問やディスカッションが行われ、常にネット教材を使った演習問題が課されます。特にブログを通した教授のレスポンスが本当に早く、試験前は多くの学生が利用していました。トランスファーしてきた友人が、教育に対する熱心なサポートが特にこの大学は強いんだと言っていました。
<国際保健の現場へ~Guatemalaフィールドワーク~>
4月末に私はグアテマラのマヤの村々を訪ねました。今心に残っているのは「本当に素晴らしい人たちは現場にいる」というOrganizerの先生の言葉です。念願であった国際保健の現場に待ち受けていたのは失敗の数々、悔しさと無力感でした。大きなスケールで物事を考えれば考えるほど、大事なのは矮小な個人のレベルでの行動なのだと感じました。
大学病院のGlobal Health Trackと国際NGOの合同プロジェクトに同行、一週間という短い期間でマヤの女性たちの健康状態の調査を行い、報告書をまとめ発表を行いました。今、多くの開発プロジェクトは「持続可能」であることを大前提に、現地の人々のニーズを徹底的に調査し、さらに現地の人々が主体となってそれらの課題を解決するシステムを構築すること、そのチームの一員となることが求められています。このようにいうと聞こえはいいですが、論文やディスカッションで学ぶこととその実際の間にはまだまだ大きなギャップがあり、さらに言えば、本当の意味でこの理想の開発を実現することの難しさはおそらく「現場」にいる専門家たちが一番実感しています。
(写真3 マヤコミュニティにて:できることを全力で)
グアテマラではチームメンバーに入れていただき、血圧や脈拍酸素飽和度の測定という簡単な仕事を与えてもらいました。毎日のログの作成、報告書のデータをまとめることが私の仕事でした。普通は立ち入れない文字通り山奥の村に行って肌でその「現場」を感じてくることはできました。たくさんの人と話をし、直接触れ合いました。しかし「できたこと」はここまで。数え切れないほどの「できないこと」を学びました。今思い返しても、私は常に現実の厳しさ、迷い、疑問、そして無力感の渦の中にいた感じがします。土だらけになってホテルに戻っても頭に靄がかかったように考えを消化できず悶々としました。自分が今まで学んできた知識、Evidenceや統計学では太刀打ちのできない大きな壁を感じました。現地の人々はそんな私を、アメリカから来た医療チームの一員として最大の敬意を払って接してくれました。ときにその視線が痛い程に自分がここにいることへの責任を感じました。訪れた2つ目の村に、13歳のダニエロという名前の少年がいました。優しく礼儀正しい彼は週末は村を出て中心街で音楽を学んでいます。マリンバが得意で将来はマエストロになりたいと少し照れながら言っていました。彼のおそらくビタミン欠乏が原因の脊椎の湾曲に、私は姿勢の矯正やマッサージを勧めることしかできませんでした。毎日の畑仕事や暗い学校で過ごす彼の生活環境の中で、私のアドバイスは彼にとってどれほど意味のあることでしょうか。どれほどの影響を与えるでしょうか。それでも私が一番なにか貢献していると感じたのは、その地の子供たちを笑わせたとき、彼らの話を聞き前向きにそれを後押ししたときでした。今の私にできるのはここまででした。
何もできなかった「現場」で感じた無力感が今回の留学の楽しさを思い出すその裏に常に付き纏い、現在でも常に私の行動を規定しています。この悔しさ、敗北感のさきに何があるかわかりません。それでもどんな場所でもその最前線で行動し続けていきたい、そう思うには十分な体験でした。
<留学を終えて>
初めてキャンパスに来たときに感じた未知への期待や不安の中にいた自分と明らかに地続きのその先に今の自分がいます。どちらかと言えば、一生懸命になり目の前が見えなくなった折に、過去の自分を道標に何とか歩みを進めてきたという実感があります。振り返るとそこは自分だけの個性的な物語に満ちていて、その積み重ねの先にだけ確かな行動があるのです。昨年、初めてのレポートで私は次のように述べています。
(この留学が)どのような結果になろうとも、それは成功や失敗だとか、点的な概念や客観的な指標で測れるものではありません。私だけの事実を伴った経験として、私の中に凛とあり続けるのだろうという確信があります。
過去の事実が「今」という新たな道に繋がっています。”Carpe diem”とは映画のセリフとしても有名ですが、元々古代ローマの詩人の言葉です。紀元前から儚い人生を憂い今この瞬間を楽しもうという前向きな概念があったことに人間の本質を考えさせられます。過去の自分に何かが加わったとすれば、今その瞬間で限りなく全力を尽くすことを学んだことかもしれません。
巨大な時間の流れの中の一点として現在の自分を取り出してみると、そこには一見して平凡な自分がいます。日本だろうとアメリカだろうと継続して勉強することは変わらないのだという感覚が強く、私は具体的に何を得たのだろうかと疑問を持つほどに冷静です。このことをずっとお世話になってきた大学の先生にお話しすると、留学から無事帰ってきたねという労いの言葉のすぐあとに「バカモノ」と言われてしまいました。そう思っている時点で留学前のあなたとは全く異なっているよと。日本に帰ってきて、アメリカ留学に対するただの憧れが自分への反省と実質的な行動の重要性に変化していることを指摘してくれました。
先生はまた、同時にこの留学の経験を単なる感謝の言葉以上のものとして家族に伝えてみたらどうだいと優しく言ってくれました。こんな言葉をかけてくれる人が周囲にいることが私の誇りであり、私を私足らしめてくれます。
この恩師の他にも、私たちの成長した姿をみるのが生きがいとまでおっしゃってくださるJIC会長、現地や日本で惜しみない支援を続けてくださったイリノイ関係者の皆様、いつも心配してくれた家族、日本やイリノイで出会ったかげがえのない友人達、皆様のおかげで私は改めて今の自分を肯定したいと思えます。このような人々に囲まれていることを本当に幸運に思います。止むことなく歩みを続けていきます。本当にありがとうございました。
(写真4 アンテロープにて:どこまでも真っ直ぐな道の先)