守埼美佳さんの2017年4月分奨学生レポート

みなさんご無沙汰しております。第41期奨学生の守崎美佳です。いよいよアメリカで書く最後のレポートとなりました。アメリカではさくらが見られないものかと思っていましたが、日本館の周りにはきれいなソメイヨシノが咲き、もう少しすると枝垂れ桜も咲き始めるとのことです。多分この場所で、色とりどりの花が咲き乱れる木々に囲まれた小道を歩き、ふと気に入ったところで立ち止まり、春の香りと程よい暖かさを感じる瞬間はもうないのだろうなと思うと、今この瞬間が愛おしく思えてならない今日このごろです。

-photo1 さくら

日本館の庭にはギースもいて、水の中を泳いだり、外に出てきて水かきと羽を休めたり。彼らも人が集まり賑やかなのは嫌いじゃないのか、こっちをじっと見つめるので、カメラを向けると、半ばカメラ目線のギースの写真が取れました。

-photo2 かも

1、履修した授業

STAT410
・先学期に履修したSTAT400に引き続き、確率論の授業を履修しました。授業形態は週3回の講義、また週1回の宿題で構成されています。基本的な確率分布について学習をした先学期に引き続き、今学期は2変数の確率分布や推定の方法、推定したパラメーターの妥当性の確認を学習しました。

MATH241
・微分積分の授業でした。授業形態は週3回のレクチャーと2回のディスカッション、毎週WEBで提出をする宿題と、毎学期3回の試験で構成されています。教授がレクチャーを担当し、TAがディスカッションを担当します。多くの学生がエンジニアになるこの大学の風潮を反映してか、学習する内容が教科書のカリキュラムに準拠したシステマティックなものになっており、基本的な公式の運用方法を効率よく習得できる反面、深い思考をさせる工程は少ないように思いました。

MATH415
・線形代数の授業です。数学の割にボキャブラリーが多くて大変です。オンラインシステムを利用して生徒が質問をし、TAや教授がそれに答えるという形態が便利です。また、チュータリングルームの制度が充実しており、週3回〜4回、毎回3時間ほど、学生が自由にTAに質問をする事のできる機会が整っています。

CS105
・コンピューターサイエンスの授業です。内容は、Scratchという、プログラミングのピースを組み合わせるパズルから、Excel、Java Script という順番で、全くパソコンの前提知識のない人でも親しみながらプログラミング言語の作りを学んで行くことのできる構成になっています。
この大学がコンピューターサイエンスの分野で有名であるとはもともと聞いていましたが、そのような結果が出せているのはファカルティが採択している教育制度にも原因がありそうです。毎回授業開始2時間前までが〆切になっているアクティビティは授業のための準備を促進させるでしょうし、学生がノートをとってシェアする制度は担当者にも他の学生にとってもウインウインです。学生にインセンティブを与えることにって学生がより多くを学ぶための態度や行動を促進することが教育の原理であることを考えれば、それらを「学生の自主性」に任せるだけでなく、制度化できる部分は制度化することによってより高い結果を生み出すことに成功しているのだろうなと思います。

まとめ
振り返って見れば、高校3年生で文系を選択して以来避けてきた分野に入り込んだ今学期でした。高校の時よりは分野への理解が進んだ自負はあったものの、やはり他の人より達成度が低く、更に自分の努力量も足りなかった。この分野で将来組織の中で貢献しようと思うのであれば、さらに勉強をすすめる必要があるというのが、今の率直な感想です。
また、成績を取ることと原理を学ぶことのトレードオフ関係についても考えさせられました。成績を取るために重要なのは、期限内に決められた課題をなるべく高い完成度で提出すること。しかしそのためには、分からない点をスキップして時間内に終わらせることを最優先する必要があることがあります。しかしそれでは自分のわからなかった所がいつまでたってもわからないままです。結局、直前に焦ることのないように早く課題を始めること、分からない事があったときはその場で解決するまで質問をすること、単位時間での学習量を上げること、など、とても基本的な習慣を自分に内在化させることが大切なのだろうなと再確認した学期でした。

2、小山記念奨学制度を存続させることの意味

私は自分自身が小山記念奨学制度を利用させていただいて留学をし、奨学生の一人として文化発信事業にかかわらせていただく中で、「なぜこの留学制度を存続させたいのか」ということをずっと考えさせられました。現在より多くの交換留学制度が提携される中で、大学側としては、限られた予算を適切に配分する必要もあるのだろうと思います。しかし、本留学制度を1年間継続して利用した今、この留学制度を継続することの価値を確信するようになりました。
ダイバーシティ
人が進路選択をする理由は様々です。留学に際しては、はじめからそれを見越して進路選択をする人もいれば、他の人より遅れたある時期に突然留学を心に決める人もいるでしょう。だけれども、途中から留学を心に決めた学生の意志が、より早い時期から留学を心に決めていた人の留学の意志よりも軽視される理由はありません。また、将来的にどちらが社会に多くの利益を残すことになるのかは一概には判断できません。そのため、より多くの留学希望者に対して機会提供がなされるべきです。現状、UIUCのような米国の大規模な大学との交換留学を提携している大学は、日本国内では一部限られています。 しかしそれでは、当然この大学への留学の機会はある一定の人に限られてしまいます。日本全国の大学の学生を対象にする本奨学制度は、より広い層の学生に対して留学の機会を提供する制度であると言えます。
人のつながり
他の交換留学の制度に決してない小山奨学制度の宝の一つは、40年を越えて築かれた人のつながりであろうと言えます。先輩方はもちろん、日本館の方々、またその他産業に携わる方々や、大学関係者の方々、そう言った方々との信頼関係が長い期間を経て構築されていることは、小山奨学制度の大きなメリットの一つです。私は留学中、 日本館の方々と関わる中で、日常を豊かにする「文化」の意味を日本館の方々からは学ぶとともに、自分だけではつながりを作りにくい現地の学生と交流する機会をたくさんいただきました。さらに、ボランティアを通じて、自分の力で他の人の役に立つ喜びを再認識し、自分の将来に対する確実な指針ができました。

もちろん、奨学制度を継続させる以上、本奨学制度がUIUC側に対しても利益を提供できることが理想でしょう。日本館を通じて学生がアメリカへの日本文化の発信に携わることは、大学に対してメリットを提供するといえます。もちろん文化発信それ自体は、短期的に目に見えやすいメリットをもたらすものではありません。しかし、日本文化のような「文化」は、人類が長い歴史を経て知恵を出し合った気づいてきた営みです。四季を愛で、一杯の茶を芸術にまで仕立て上げる精神がもたらす「豊かさ」は、それだけで生活を豊かにすると同時に、効率化、大量生産・大量消費をよしとする社会にあってはは決して気づくことの出来ないものの一つでしょう。
私はこちらに来る前まで、なぜアメリカ中西部の大学に、遠くはなれた日本という国の文化を受け継ぐ施設が このように長く存在し人々に受け入れられてきたのか、 不思議でなりませんでした。現地に来て、自分が予想していた以上に、地元の方々が日本文化に対して興味を示してくれていたことに驚きました。日本館の人気を支えるのは、単なる物珍しさ以上に、日本文化に内包される中で感じる心地よさが有り、それに一度訪れた人が気づいているからに違いありません。そこには日本文化自身の価値と、それを受け継ぎ広めて行く方々の存在があるのでしょう。
現在イリノイ州は財政難であり、本大学の財政も大部分が工学部によって保たれていると聞きました。多くの資金集め、多くの従業員を養い、多くの学生を受け入れる必要のある中で、実利的な面に重点が置かれることは理解できます。ただし、大学は本来「知」を想像し受け継いでゆく機関です。である以上、広い視野と長い時間軸で社会を捉えた時、少なくとも、幅広い「知」と「豊かさ」の価値を認め、何が大切なのかを見失うことのない大学でいてほしいものと思います。

私は留学中は周囲の人に比べればそれほど遠くには行きませんでしたが、シャンペーンアーバナという小さな日常空間から一歩外に出て未知の場所を歩く経験というのはやはりいいもので、一歩離れたインディアナポリスのカナル沿いに歩き、夕暮れ時に、日光が川の表面をなぞるこの瞬間は、シャッターに収めるととても可愛らしく見えます。

-photo3 インディアナポリス

留学中の新しい刺激に心踊る瞬間は、こうして新しい場所で新しい物を見るだけでも得られるのでしょうが、長い時間を一人で過ごし、自分の人生について再考する、いわゆる「自分の軸」を再確認する時間を得られたことには感謝せざるを得ません。全く異なる空間で、異なるものを「よい」とする人の波に飲まれると、少しは自分もそちらに流されそうになります。だけれどもふと一人になって自省すると、そうやって少しぶれたとしても、自分が大切にしたいものや向かいたい大きな方向はやっぱり変わりません。新しい環境で、新しいことを学ぶことは、自分が向かいたい方向をより明確にしそこに近づくための道具を少しでも多く手に入れて行くことなのでしょう。だけれども、最後にそこにたどり着くことができるのか、得た道具を自分の理想を実現するために使うことができるのかは、自分の意志と行動(と偶然性に頼る部分が大きい外部要因)の結果にほかならず、自分の人生には結局自分で責任を持つしかないのだという感覚は、改めて自分に緊張感をもたらしてくれます。