月日が経つのは本当に早く、昨日シカゴはO’Hareの空港についたばかりだと思っていたのに、もう最初の留学レポートを書くことになりました。この留学レポートは、留学を支えてくださった方々へのご報告、次の代の奨学生の留学準備の参考資料、留学をする可能性が少しでもある方への情報提供の、3つの目的を意識して書こうと思います。
8月14日早朝にシカゴのオヘア空港に到着。留学生の多くはこの日にシカゴに到着し、バスで大学に向かいました。バスの中ではアジア人が多く、窓の外に目をやる人もいれば、学期開始1週間前だというのに完璧に組まれた時間割を最終確認している人まで。特に中国人の多くはより高い教育水準や生活環境、仕事を求めて、高い競争率の中、尋常ならぬ努力をして国外で学ぶ機会を獲得するといいますが、その一面を垣間見たようで、少し緊張感を覚えました。
履修している授業の中で代表的なもの
・PSYC311
Behavioral Neuroscience Lab
動物の行動を脳から理解するための実験実習です。脳の部位についての講義や、羊の脳の解剖、ラットを扱う練習をしています。ただの講義形式ではなく、自分で考え知識を蓄える授業を取りたい、と思い、履修をしました。
・Stat 400
確率論から統計の授業までを履修する講義。
内容は日本の高校数学の確率から大学初期で学ぶ統計を合わせたものです。数学は日本語をほぼ直訳すれば大体意味を理解できる授業のため、言語のハンディキャップが少ないと言えます。そのためか、授業の主導権は中国人とインド人に握られています。日本と異なるのは、グループディスカッションがあるということ。機械的に計算をして正解を導くのではなく、答えが用意されない状態で少しでも正解に近づく過程が重視されているように感じます。そして、グループで討議をすると高い確率で間違いが淘汰され、正解だけが昇華されて残るところがとっても不思議です。
Psyc 453
視覚の構造について、例えば、自然界に存在する光を、人間はなぜ今見ているような「色」として見ることができるのかを、脳や神経系の構造から明らかにしていきます。講義とゼミの掛けあわせのスタイルです。余談ですが、講義をする先生が授業中に糖分補給としてM&Mをつまんだり、プレゼンを担当する学生が堂々と水筒を教壇に持参する点に、アメリカらしさを感じるのでした。
授業全般のまとめ
私が日本で所属していた大学は「研究機関」としての色が濃かったことに比べ、ここイリノイ大学はむしろ「教育機関」としての色が濃い印象を受けます。その理由としては、第一に、試験や課題の量が膨大です。大体の授業では、一学期に3回の試験、少なくとも2週に一度の課題の達成度合いから、成績評価がなされます。第二に、充実したITシステムを全学的に導入し全ての授業で活用していることも、特筆すべきです。大学に共通IDシステムがついており、授業のスライドや講義録、課題などは全てそちらにアップロードされます。このシステムには授業を担当する教授の連絡先なども全て記載されています。学生は授業の復習、教授への連絡、課題の復習、また課題に関する質問や議論をこのITシステム上で行うことができます。
交換留学生は必修科目がなく、好きな授業を履修できます。ただ、交換留学生にもアドバイザーがついており、履修した授業の難易度を個人個人に対して教えてくれます。授業の履修は自由ですが、自分が所属する学部以外の学部で開講されている授業の履修には当該学部への連絡など複雑な手続きが発生することもあるので注意が必要です。
日本でも聞いていたことではありますが、日本の講義が教授から学生に一方通行であるのに対し、アメリカの授業は教授と学生との対話にほかなりません。学生は教授の講義が途中であっても、疑問点があると手も挙げずに質問をし、教授もそれに対して回答をします。しかも大教室であっても、学生の声が教授に届く範囲なら、この形が維持されます。
アメリカの大学は授業料が高いという評判は本当で、ここイリノイ大学も州立大学であるにも関わらず、学生は日本と比較にならない額の授業料を支払っています。ただしその分、大学として学生に提供するリソースが大変多い。学生寮や食堂、交通機関、スポーツジムといったハード面はもちろん、各種催しや学習・就職のサポートなどのソフト面での支援も大変手厚いと感じます。高い授業料はこうした施設費や職員の雇用に還元されているのだろうと思います。
所感
渡米して数週間ですが、大雑把な日米比較をしてみたいと思います。
非常に大雑把ではありますが、日本は「型」を重視し和を維持する傾向が強く、それが「周囲の迷惑にならない、授業の進行を妨げないように静かに授業を聞く』講義のスタイルや、「多くの挨拶文を伴うe-mail」に顕著にあらわれているように思います。一方アメリカは「無駄をそぎ落とし、全体の効用を上げる行為」が賞賛される用に思います。それが、「疑問があったら全体の前やオンライン上で質問する」授業形態や、「必要最低限の内容のみが記載されたメール」にあらわれているように思うのです。
これらは質的な違いであり、一方がよくもう一方が悪いという判断を下すべきものではありません。ただし、ある目的や条件のもとでは、一方の手段がもう一方の手段より優っている場合がありそうです。例えば、授業は学生の学習効率を高めることを目的としています。その中で、もしも全ての生徒が、教授の講義を、全てその場で完璧に把握できると考えるなら、日本の大学のように、授業で質問をしない方が、50分の講義の中で多くの情報量を持った授業をすることができます。しかし、多くの学生は講義の内容に対して無知であるため、往々にして講義のどこかでつまずいています。また、学習は内容の入力だけでなく、思考の出力とそれに対するフィードバックとしての入力の繰り返しにより進むように思います。そうであるなら、不明な点をその場で解消することが学生の理解をより促進するものであり、ある学生が質問をした場合、その学生の疑問点が解消されることはもちろん、他の同一の内容で躓いていた学生に対しても益があるため、その授業はより多くの人に益をもたらす「良い授業」と呼べることになります。
アメリカは人種のるつぼ、とは中学校の地理の試験答案に繰り返し書いた記憶があります。当時は試験のために覚えたこの言葉ですが、実際にアメリカに来てみると、まさにその通り。普段人と話していても、英語のほかに中国語、韓国語、スペイン語などもう一カ国の言葉を話す人が大変多い。ゆくゆく話を聞くと、「私はABC(American Born Chinese)なんだ」「両親がチリの出身なんだ」というバックグラウンドを持つ人ばかり。歴史を紐解けば何の不思議もないことですが、実際にその世界に巻き込まれると感動は一潮です。
この環境の中にいて一つよいことは、他人と同じであることを強要されない「マイノリティ」にとって住みやすい国である、ということ。肌や髪の色、体格、ファッション、生活形態、全てが異なるものから構成され、多数派や少数派という概念は薄弱です。
ただもう一つ直視をしなければならない現実は、それぞれの民族にとってのcozy zoneは確実に存在するということです。多様性を尊重「すべき」という理念を共有していても、言語が通じ同じ生活習慣を共有し価値観の合う人々といるほうが楽なのは確実。中国人は中国人同士で、欧米人は欧米人同士で、インド人はインド人同士で友人や恋人関係を形成するのがまだまだ普通なように思います。
アメリカに来れば多様な人々が瞬時に共生できるというのは理想論なのかもしれません。渡米したばかりの興奮も次第に冷め、言語や人間関係、授業などで様々な壁が見え始めてきたこの頃、今後如何にこれらの壁を突破していこうか、考える余地はたくさん有りそうです。
2016年9月24日(土)
第41期小山八郎記念奨学生 守崎美佳
本奨学制度に深いかかわりのあるAlice Vernonさんとそのお友達とディナーテーブルを囲んで。