川島今日子さんの2007年1月奨学生レポート

今イリノイ大学に留学中の川島今日子さんから、2回目の奨学生レポートが届きました。川島さんはフロリダ半島でサンクスギビングを過ごしたり、ウィーンへの短期留学もしたりと、留学を字存分に楽しみ、そして成長しています。その活躍ぶりをご覧ください。

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ICの皆様こんにちは。この冬は例年に比べて暖かいと言われているイリノイですが、12月以降雪の降る回数も多くなり、今朝も窓の外は真っ白です。1月半 ばから”春”学期がスタートしましたが、うららかな春はまだ先で、しばらくは厚いコートに帽子と手袋の季節が続きそうです。

今回のレポートでは、<サンクスギビング休暇>、<学期末試験と友達との別れ>、<ウィーンへの短期留学>についてご報告いたします。

*サンクスギビング休暇*

11 月末のサンクスギビング休暇を利用して、フロリダへ旅行しました。まずマイアミとキーウェストを自分で観光し、その後タンパに住む友人を訪ねました。マイ アミでは、白い砂浜のビーチで昼寝をしたり、アールデコ地区のパステルカラーの町並みを見たりとのんびり過ごしました。滞在したユースホステルでメキシ コ・ロンドン・カリフォルニアなどから来ている女の子達と出会いました。ロンドンからの2人組の女の子は長期休みを利用して1ヶ月以上かけてアメリカ全土 を旅しているそうで、大きなバックパックが逞しく、たくさんの美しい風景を見たと聞いて羨ましく思いました。アメリカ本土最南端の島キーウェストへは、大 西洋とメキシコ湾とを二分するオーバーシーズハイウェイで行くのですが、その道中の楽園への架け橋と言われるセブンマイルブリッジが印象的でした。島では キーウェストを愛した作家アーネスト・ヘミングウェイの家へ行ったり、海辺のレストランのテラスで名物のカキフライサンドイッチを食べたりと、南国の雰囲 気を満喫しました。

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タンパでは2005年の夏に英国・ケンブリッジ大学のサマーコースで知り合った、フィリピン系アメリカ人の女の子Vanessaの家にお世話になりまし た。この港町はNYヤンキースのキャンプ地としても知られています。タンパに着いた日の夜は、Vanessaが「キョウコのために用意したサプライズ」と 言って、同じくケンブリッジで知り合った男子学生のTonyとのディナーをセッティングしてくれていました。3人で再会を喜び、近況を報告し合いました。 11月23日のサンクスギビングデイ当日は、Vanessaの親戚が一同に介して、ターキー・ハム・マッシュドポテトをはじめ、フィリピンの伝統的なヌー ドルなど、食べきれないほどの料理を囲んで賑やかにお祝いをしました。初対面の私のことを「日本からの特別なゲスト」と言って、家族のように歓迎してくれ ました。フロリダの明るい太陽と親切な人々に触れて、気力を満タンに充電して帰ってきました。

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*学期末試験と友人との別れ*

サンクスギビングが終わると、もう学期末が迫っており、期末レポート・試験の準備で寝る間もないほどでし た。中でも、International Communicationの授業のグループワークにかなりの時間を割きました。「地球温暖化に関する各国の報道比較」がテーマで、他の6人の学生と図書 館やUnionに連日集まって何時間も議論を交わしました。このグループワークを通して、真にアメリカ人の学生と議論することができ、また長い時間を共に 過ごしたのでメンバーとは大変仲良くなりました。満足いくプレゼンテーションとレポートが仕上がったのですが、全て終わったときは皆嬉しいと同時に少し淋 しい気持ちさえ感じていました。

さらに、親しくなった留学生の中には学期末で帰国してしまう友人が何人もいて、別れの時は本当に淋しかっ たです。たった4ヶ月間ですが、笑い合ったり、悩みを聞いたり、一緒にパーティに行ったり、時には愚痴をこぼし合ったりと、随分といろいろなことを話して きた友人です。UIUCで一緒に過ごしたことを忘れず、お互いの国を訪ね合おうと約束しました。外国に友達ができると今まで”外の”国だったその国がぐん と身近に感じられます。こうして、私の中で世界がまた少し小さくなりました。

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さて、冬休みにはイリノイ大学の短期留学プログラムのひとつに参加し、オーストリア・ウィーンで約3週間勉強しました。これは勉強という意味でも新たな体験という意味でも、予想以上に貴重な体験になりました。

私 のコースのテーマは、「ウィーンの文化的多様性・統一性とグローバリゼーション」で、中欧の歴史、国際社会におけるオーストリアの役割(EUや国連)、現 代オーストリアの移民問題、またこれらとグローバリゼーションの関わりなどでした。ただ歴史をなぞるのではなく、過去の事例から現代の私達が何を学べるか に重点が置かれ、昨今のイラク戦争とイラクにおける国づくりの話題も議論されました。午前は授業、午後はコーステーマに関連したエクスカーションまたは自 由時間に当てられます。エクスカーションでは、教会・宮殿・国会・難民生活支援施設・国連などを訪れました。また週末にモーツァルトの故郷ザルツブルグへ 行きました。これもただの観光ではなく、ザルツブルグセミナーと呼ばれる、世界各国の学生が集まって1週間毎に様々なテーマについて勉強する施設を訪れ、 刺激を受けました。ウィーンでの自由時間には、美術館やカフェでウィーンの文化を感じたり、市場や蚤の市で買い物をしたり、友人とオペラを観に行ったり (立ち見は3.5ユーロという安さ!)しました。そして、年越しもまた特別でした。日本で紅白歌合戦が放送されている頃はアルプスの麓でのハイキングを楽 しみ、夜には中心街でのシルベスターという年越しイベントに出向いて、たくさん出ている屋台で温かいワインを飲みつつ新年を迎えました。

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今回の短期留学では、大学1~2年時に学んだドイツ語を役立てることができました。というのも、オーストリアでは予想に反して英語の通じないことが多かっ たのです。私の拙いドイツ語でも、カフェでの注文や市場での値段交渉などの場面でコミュニケーションツールとして役立ち、嬉しく思いました。

私のグループは26人の学生とウィーン在住の教官でしたが、3週間のあいだにとても仲良くなりました。いつもアメリカ人の学生と行動するので、真に英語漬 けの環境の中で、英語力も向上しました。また、アメリカの外で「外国人としてのアメリカ人」がどんなことを考えるのかを知ることができ興味深く思いまし た。友人達は初めのうち、食べ物が違う、英語が通じない、支払いの仕組みがわからない(チップの小銭をテーブルに置いてしまい、笑われたことがありまし た)など習慣の違いに戸惑っているようでした。ある日ついにマクドナルドへ行った時、友人達は慣れたアメリカンフードを前にとても嬉しそうでした。教官は 学生のことをよく理解してくれる素敵な先生で、学生は皆教官が好きになりました。最終日には全員で木箱に入ったウィーンの有名なケーキ・ザッハートルテに サインをして、翌日が誕生日であった教官にプレゼントしました!日本語と英語で名前をサインしたら、友人達にすごーいと感心され、教官も漢字のサインに目 をとめて「ありがとう」と言ってくれました。

歴史に重点をおいた国際関係の授業は初めてで、出発前の11月・12月にも、また現地でも読まねばならない文献や提出課題が多く大変でしたが、一方で新しい分野に興味をもつことができとても充実した時間でした。

私 の留学生活も早いものでもう半分が過ぎました。先学期の始まりは右も左も分からない手探りの日々でしたが(本当にキャンパスマップは手放せませんでし た!)、今学期は英語・授業を含めイリノイ生活全般に慣れ、気持ちに余裕があるように思います。冬休みが明けて、キャンパスですれ違う友人達と「久しぶ り!冬休みはどうだった?また一緒にご飯食べようね」と声をかけ合う時、私はもう5ヶ月前のStrangerではなく、イリノイ大学というコミュニティの 一員なのだと実感します。今学期の目標は、授業を受けるだけでなく、より主体的に参加することです。先学期は授業内容を理解することで満足してしまう傾向 がありましたが、もう一段階進んで客観的な質問や意見を出せるようにしたいと思います。この機会に是非、アメリカで重要視されるCritical Thinkingのスキルを身に付けたいです。

残りの4ヶ月もあっという間に過ぎていきそうですが、毎日を充実させるよう頑張っていきます。JICの皆様、これからも宜しくお願いいたします。

河手賢太郎さんの2007年1月奨学生レポート

2006年度奨学生1月レポートの第2弾は河手賢太郎さんです。河手さんは授業の勉強以外にも、昔からの夢だというジブラルタル海峡一人旅を実現されたそ うです。想像を絶するたびのようですが、フランス語とアラビア語を操って、現地の人々と触れ合ってきた河手さんは本当にすごいです。その詳細をお楽しみく ださい。

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JICの皆様

ご無沙汰しております。
JIC奨学生の河手賢太郎です。二学期目がはじまって2週間になります。ここイリノイの1月の冷え込みようは凄まじく、-10 ℃の日が続いています。身体がじわじわ冷えてくるというよりは、寒さが槍となって身体に突き刺さってくるようです。
留学も残すところあと3ヶ月強となりました。ぼんやりと過ごしているとあっという間にすぎていってしまうと考えると、一日一日に気合が入ります。
この度のレポートでは「今学期の目標」と「冬休みの経験」についてお話します。

<今学期の目標>
アサインメントをこなし、授業で積極的に発言すること
今 学期、私はSociology of Law(法社会学)、Social Movement and Law (社会運動と法)、Psychology and Law(法と心理学)、Archeology of Illinois (イリノイ考古学) の4つの授業をとっています。初めの3つは400番代の授業(4年生・院生が履修する)なので、リーディング・ライティング課題の量が多く、日々宿題に追 われています。一つの科目、毎週約30ページ~40ページほどのリーディングがあり、さらにディスカッションペーパーを毎回提出しなければならない授業も あります。宿題をこなすだけで一日が終わります。アクティブな先学期とはうってかわって、今学期は腰を落ち着けて勉強しようと思います。
また授業中の発言も成績評価に反映するため、一瞬も気が抜けません。特に冬休み明けで、まだ英語を喋りなれてないため(!?)この2週間は授業中の議論に参加するのに苦労しました。

英語の表現の幅を広げること、
第 二の目標として、英語の表現の幅を広げることです。私は現在、週に1、2回大学の図書館に付属するWriter’s Workshopというライティング教室に通っています。ここでは、一コマ50分、単に自分の英文をチェックしてくれるだけでなく、自分の要望にそった英 作文の個人レッスンをしてくれます。先学期のCollege Writingの授業ではPersuasive Writing(立場をとり、是非について論じる)を中心に習ったので、今学期はNarrative Writingという出来事を描写する表現技法の習得に力を入れています。Persuasive Writing ではリソースや論証の作法・手順が大きくものを言うのに対して、Narrative Writing ではいかに生き生きと面白く情景を描くかが問われてくる点で異なっています。

Champaign County Courtに行って裁判を傍聴すること
私 の寮から自転車で15分程のところにChampaign County Courthouse(シャンペン郡の裁判所)とFederal Court House(連邦系の裁判所)があります。裁判の傍聴を今学期の目標に掲げたのは、実は「法と心理学」の授業の課題だからです。民事・刑事問わずいくつか の事件を1~2カ月のスパンで追いかけて、法廷内のやりとり(尋問の仕方だとか)を観察し、詳細にレポートするという課題です。
もともと私はアメ リカの刑事司法手続きに興味がありました。Peremptory challengeとよばれる手続きによって自分たちの側に有利な判断をしてくれる陪審員選び、様々テクニックを駆使した証人尋問、巧みな主弁論。刑事事 件は被告人側と検察側が勝訴をもとめて競うゲームのようだと言われています。また、日本では考えられませんが、ビデオカメラが法廷に入り、裁判中継が放送 されている地域もあります。CourtTV.comというWebsiteが登録者に法廷をonlineで流しているという国も、私の知っている限りアメリ カだけです。司法に対する国民の関心が高いのか、それとも司法が高度に大衆化した結果なのか。
少し「クセ」のあるアメリカ司法の現場を体験できるのは、法学を勉強するものにとって非常にありがたい機会です。

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時は前後しますが、
<冬休みについて>
ギリシャ神話に「ヘラクレスの柱」として登場するジブラルタル海峡は、古代「大地の果て」と考えら れていました。地中海貿易の要所ともされていたこの海峡は古代史の主人公フェニキア人、ギリシャ人、ローマ人が行き来し、8世紀以降はアラブ人・ベルベル 人がこの海峡を通ってイベリア半島へと渡っていきました。ダンテの「神曲」地獄編にもでてくるジブラルタル海峡は、古代より政治・経済・文学の関心の的で した。
アフリカからジブラルタル海峡を渡りイベリア半島へ行くことが、いつしか自分の夢となっていました。
「これをやるのは今しかない。」この旅を思いついたのはThanksgiving 明けのことでした。

外務省の海外安全情報も照らし合わせ、モロッコからスペインへの旅程を決めました。
この旅のテーマは「人」。ムスリムの人たちがどういう生活をしているのか、どういう世界観を持っているのかを自分の肌で感じることでした。
観 光地と観光地の間を車や鉄道で移動し、遺跡を巡り、買い物をするだけなら、観光であって旅ではありません。本当にその国の表情に感じるには、地域に生活し ている人と彼らの視線で語り合う、という確信がありました。それならば「自転車でモロッコを縦断する」というのは最も自然な決断でした。
友人にこの計画を話したら、彼らの反応は“Are you crazy!”でした。

自 転車の知識が全くなかったので、何から手をつけて良いかわからず、とりあえずweb上で自転車についての情報収集から入りました。期末試験・ペーパー提出 に追われる中、自転車の各パーツの名前を覚えるところからはじめ、自分の旅の目的に適った自転車を探すのには苦労しました。自転車を飛行機に載せられるか 航空会社に問い合わせたり、自転車を空港まで運ぶ方法を考えたり、旅への期待と同時に準備期間の少なさ、資金的制約からくる緊張感が入り交じったような心 境でした。また、なにからなにまで自分でオーガナイズして動かなければ先へは進めません。無から有を造り出すような楽しさがありました。

そ の後シャンペンにあるサイクルショップで自転車を購入しました。しかし、自転車を買ったところで何も始まりません。マッドカバーをつけて、フロントとリア にキャリアをつけて、ドリンクボトルのホルダーを取り付けて、タイヤの幅を32㎜のものに取り替えて・・・自転車屋さんとのやりとりを通して、自分の旅の 目的に適うように自転車をカスタマイズしていきます。また自分で自転車を分解・組立ができなければ、モロッコへは持っていけません。期末試験の終了後は出 発直前まで通算6回はサイクルショップへ通い、最終的には自分で分解・組立ができるようになりました。自転車屋のスコットには本当にお世話になりました。 僕の初めての自転車旅行がモロッコ縦断だと聞いて、彼もこう言いました。”Are you crazy!!”
それでも最後の最後まで自転車の組立・分解を伝授してくれたスコットには大変感謝しています。

私は12月16日にシカゴを経ち、ロンドン経由でアガディールへ行きました。そこからアトラス山脈を越えマラケシュ→カサブランカ→ラバト→アシラ→タンジェという道のりで行きました。

モ ロッコでの意思疎通の手段はフランス語です。無駄だと思いながら2年もの期間大学で習い続けたフランス語がこうして役に立つとは、当時の自分は予想できな かったでしょう。アトラス山脈の麓にある小さな村落の人々も流暢なフランス語を喋ることには驚きでした。現行の教育制度の下では、6歳になれば小学校に通 いはじめ、そこでフランス語とアラビア語を学びはじめます。つまりバイリンガルを育てる教育制度になっているわけです。後に紹介するバシール家の子どもた ちは中学校に通い、家庭ではアラビア語を使いつつ、高いフランス語能力を有していました。

(ただ、こうして私が旅の一コマで感じたこと は、国レベルにおいて必ずしも当てはまりません。2004年の時点で成人識字率は52.3%で、中等教育の就学率も男女ともに約50%です http://libportal.jica.go.jp/Library/Public/Index/MiddleEast/Morocco.pdf)

一 日に平均6、7時間は走行しました。必ずしもすべての村や町に宿泊場所があるとは限らず、町を発つ前に次の目的地に宿泊場所があるかを確認する必要があり ました。この場合複数人から情報収集するのがコツで、一つ一つの情報を重ね合わせて、もっともありえそうな結論をだします。また一日80キロほど走行する 場合は、やはり目的地に近づけば近づくほど情報の精度も上がって行きます。日暮れ時にようやく目的地へ到着したものの「宿がない!」となればどうしようも ありません。情報収集は死活にかかわるのです

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自転車の旅の良い点は、通りすがりの人達と会話ができ、また車や電車で走っていれば見過ごしてしまうような一瞬の風景を写真に撮ることができることです。 道端で子どもたちに交じってサッカーもできます。カフェで一服しているおじさんに呼び止められて、ミントティーを飲みながら一服。また、私は折り紙と習字 道具を持っていたので、カフェで折り紙教室を開いたり、子どもたちに習字を教えたり、道路工事をしている人に交じって働いたり(本当です!)自転車での旅 は様々なコミュニケーションの場を生んでくれます。
基本は笑顔で挨拶です。僕から「アッサラーム・アレイクム」と笑顔で語りかければ、「ワレイク ム・ッサラーム」と笑顔で返してくれます。「ラバース」(元気ですか?)「ラバース・ハムドゥリッラー」(元気です。アッラーのおかげで)「アナ・ジャポ ネ」(私は日本人です)といえば「旅人よ、よくきた」と迎えてくれます。「よそモノがきた」、「なんだこいつは」とにらみつけてくる人も多くいましたが、 自分から笑顔で相手の言語で挨拶すれば、相手のすぐに表情も緩んで、仲良くなってしまいます。そして会話は続いていきます。「東京ってどんなところだい」 とか、「あと20キロも行ったら宿があるよ」とか、「あのアトラス山脈を自転車で越えるのか。それはたいしたもんだ」とか。中には「この自転車は立派だ なぁ。で、幾らなら売ってくれる?」という商売っ気のたっぷりな人もいました。
こうして多くのモロッコの人々と接して感じるのは、挨拶・笑顔とい うプリミティブな行為が、「他人」という言葉に含まれるような極度の緊張関係を解きほぐし、人と人との関係をスタートさせるのに絶大な威力をもっていると いうことです。挨拶・笑顔そして感謝は世界の共通語です。

バシールと出会ったのは、モロッコ南部のTaroudantという町へ 向かう途中のレストランでした。私がタジン(オリーブとスパイスの効いた羊肉と野菜の煮込み)が出てくるのを今か今かと待っていると、僕の身なりに興味を もった一人のおじさんが声をかけてきました。私の無鉄砲なモロッコ縦断計画をネタに盛り上がった後、彼がTaroudantの弁護士だというので、話題は 急にイスラム法になりました。イスラム法の講義で得た知識がアトラス山脈の麓で役に立つとは思ってもいませんでした。「今晩はうちに泊まっていきなさ い。」とバシールに誘われました。一度は断ったものの、すでに4時を過ぎており陽が沈むまで1時間程しかなく、結局彼の家に一泊させてもらうことにしまし た。

その夜、一週間ぶりに風呂をつかわせてもらいました。それまでは水のシャワーしか浴びたことがなかった自分にとっては、水風呂で十分 にありがたかったのですが、浴槽の中にはお湯があるのです!「水しか出ないはずなのに、どうしてお湯が」と疑問に思い浴槽の横をみてみると、なんと大きな ヤカンが置いてあります。浴槽に沸かしたお湯をいれてくれたのでした。彼らの思いやりが心を打ちました。

一宿一晩の恩義。何らかの形で感謝の意を伝えようと、お金を渡そうとしたけれども、バシールは「ケンは私たちの友達だから、お金は受け取れないさ。これからの旅にとっておきなさい。」と言ってくれました。

そ の後アトラス山脈を越え(わずか9字で表現しましたが、上りは過酷でした・・・)、マラケシュ→カサブランカを経て北へ北へと進んで行きました。1月1日 にジブラルタル海峡を渡る予定だったので、日程の都合上、ラバトから鉄道を使ってAsilahというTangerの約40キロ南にある大西洋沿いの町にい きました。

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Asilahにしばらく留まることにしたのは、Tangerの喧騒を避けるためで、静かな町で旅のつかれをとろうと思ったからでした。あのまま数日間、何 事もなく過ぎれば、Asilahも「海岸沿いの美しい町」で終わっていたでしょう。しかし、ある日メディナ(旧市街)を散策していると、アラバマからやっ て来たというイサという不思議なアメリカ人が声をかけてきました。僕がイリノイ大学に留学していること、自転車(と電車)でモロッコを縦断していること、 彼がスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラをマドリードから踏破しその足で南下しモロッコに来たということを話していると、彼が「君も、僕がいま泊 まっているモハメドというミュージシャンの家に来ないか。あそこなら毎晩グナワ音楽がたのしめるよ。」と誘ってくれました。滞在費を私に負担させてくれる のを条件に、彼の家におじゃまさせてもらうことにしました。
後で知ったことは、モハメドなる人物は、スーダン起源とも言われるグナワ音楽のミュー ジシャンであり、マーレム(師匠)という称号を有し、年に一度モロッコで開かれるグナワ・フェスティバルで演奏するほど名手だということです。モハメドの 家には彼の弟子が出入りしており、にぎやかな音楽学校のようでした。

私がモハメドの家にいた2006年12月31日はイスラム暦1426 年12月10日にあたります。この日はムスリムにとって一年を通して特別な日で、イードゥル・アドハという犠牲際の開始日にあたります。犠牲祭は旧約聖書 の創世記やコーランの第37章を起源としています。神(アッラー)に命じられるままにイブラヒム(アブラハム)が子イスマイル(旧約聖書ではイサク)を人 身御供として捧げるようとしたところ、神(アッラー)がイブラヒムの信仰心を認め、イスマイルの代わりに雄羊を生贄に捧げたという故事に倣い、羊を生贄に する犠牲祭が今でも続いています。

モハメドはその日の朝からお昼にかけて、家族や弟子の見守る中、3頭の羊を屠りました。「ビスミッ ラー」と呟き、羊の喉元に刃を入れます。皮を剥ぎ、頭部を切り落とし、内臟をとりだします。はじめて見る屠殺の光景は非常にショッキングでしたが、「自分 がいつも食べている肉類はすべてこういうプロセスを経ているんだ」と感動は、「あたり前」のものが「あたり前」でなくなっていくのを実感する貴重な体験で した。
目の前にぶら下がった羊の表面からはまだ湯気がたっていました。その場で肉を切り取って焼いて食べると、これまた形容し難い不思議な味がしました。

犠 牲祭の期間、ムスリムは屠った羊の3分の1は親戚・家族へ、そして残りの3分の1は貧しい人に施します。羊に限らず果物でも野菜でも、他の人に分け与え、 シェアすることが生活のすべての場面で実践されているのを目の当たりにすると、イスラム教に対するイメージも次第に変わっていきます。

1月1日の早朝Asilahを出た私は、40キロ先のタンジェ港までモロッコ最後の道のりを自転車で進みました。ジブラルタル海峡を渡ればそこはイベリア半島。7年来の友人の住む古都バリャドリードへと向かいました。

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犠牲祭の期間、ムスリムは屠った羊の3分の1は親戚・家族へ、そして残りの3分の1は貧しい人に施します。羊に限らず果物でも野菜でも、他の人に分け与 え、シェアすることが生活のすべての場面で実践されているのを目の当たりにすると、イスラム教に対するイメージも次第に変わっていきます。

1月1日の早朝Asilahを出た私は、40キロ先のタンジェ港までモロッコ最後の道のりを自転車で進みました。ジブラルタル海峡を渡ればそこはイベリア半島。7年来の友人の住む古都バリャドリードへと向かいました。

旅はまだまだ続きますが、長くなってしまったので、旅の紹介はここまでで、以下私の感じたことをまとめます。

第 一に、モロッコからスペインへ入った私は、一面ではあれ、アフリカとヨーロッパの違いの縮図に触れることができました。スペインやフランスの町中を歩いて いると、整備された交通機関、きれいに掃除された道路、時刻通りにくる電車、町中では多くの車が往来し、ブティックが立ち並び、ホテルのシャワーからはお 湯がでる。郊外に出れば区画の整った田園があり、張りめぐらされた電線網から各家庭へ電気が供給される。「人的資源、技術、富が偏在している」とまでは言 わなくても、少しでもこういった富、技術、人的資源を有るところから無いところへと持っていけば、世界が住みやすいところになるのではないか。そうするこ とが善いのか悪いのかは別にして、こうしてジブラルタル海峡を渡って二つの世界を見比べることができたのは有意義なことでした。

第二に、 たしかに、モロッコでは道路、交通機関のような物的インフラや義務教育のような社会的インフラが西ヨーロッパ諸国ほどには整備され制度化されているといえ ません(マラケシュ以南はまだ鉄道が通っていない状態です)。しかし制度化されていない、すなわち「出来上がってない」ということは裏を返せば、生活のあ らゆる局面でインフォーマルなやりとりが大きくものを言い、いま自分が対峙している相手とどういう関係を築くかで、物事が上手く運んでいく可能性があるこ とを意味します。たとえば、宿屋では交渉次第で宿代を下げてもらったり、カフェではウェイターと仲良くなればちょっと多めに料理を盛ってくれたり、お金が 無いときには所持品をお金代わりにうけとってくれたり、とインフォーマルなネゴシエーションで自体が好転した例は数に限りありません。

第三に、旅とはなにか。
日本やアメリカのような高度に制度化された社会のなかで生きていると、居心地のよさから、ともすると自分の世界が完結してしまい、自分の置かれている環境が世界的にみていかに恵まれているかということを気付かなくさせてしまいます。
旅で見、聞き、体験したことが、日々当然の如く享受している「あたり前」を解体し、もっと意識的に自分の身の回りのことを観察できるように、私自身なりました。
「寮 のシャワーからはお湯がでる!」という感動から、「このお湯はどこから来ているのだろう」という次の問いへと進み、調べてみると、「寮の地下で沸かしてお り、そのための電気は寮から数百メートルのところにある発電所から供給されている」ということまでわかってくるのです。
寮の食堂でも、今までのように当然の如く食べ始め、当然の如く残し、当然の如く去っていくのではなくて、ちょっと一瞬時間をおいて、自分の境遇に思いを致せば、おのずと感謝の気持ちが沸いてきます。

旅とは人との出会いです。
自分とは異なった環境に生まれ、その運命を受け入れ、毎日を明るく一生懸命生きている人たちとの出会いは、将来の進路を決めかねぐずぐずしている自分に元気をくれます。同時に、恵まれすぎの環境のかで育つ自分に、罪とも恥ともいえぬ不思議な感覚を抱かせてくれます。

4年間(留学も含めて5年間)の大学生というモラトリアムを終えて、ようやく次のステップへと旅立つ心の準備ができました。
5月まであと3ヶ月強。残り少ないアメリカでの大学生活を一日一日大切に送っていきたいです。

留学という貴重な機会を下さったJICの皆様、モロッコ・スペイン・フランスでお世話になった方々、Crazyと言いながらも私を励ましてくれた友人たち、そして相当に心配をかけたであろう家族に、この場を借りて心から感謝申し上げます。

東京大学法学部4年
河手賢太郎


佐藤 真莉子さんの2007年1月奨学生レポート

2007年1月の奨学生レポート第3弾は佐藤 真莉子さんです。佐藤さんはカリフォルニアに行ったり、イスタンブールで短期留学したりと、パワフルに留学期間を楽しんでいるようです。みなさんはもう世 界に勉強しに行っているのだなあと、つくづくJICの奨学生の行動範囲が広くなっているのに感心しました。では佐藤さんのレポーをお楽しみください。

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JICの皆様、ご無沙汰しております。お元気でお過ごしでしょうか?
私は前回のレポートから今回のレポートの間、かなり風邪に悩まされましたが、そんななかでも一日も無駄にはできない!ということで、アクティブにすごしていました。
今回はサンクスギビング後から冬休み、そして新学期の授業についてレポートしたいと思います。

① 怒涛の2週間~誕生日

サンクスギビングの旅行から帰ってきてからの2週間は、ひたすらレポートとテストに追われていました。実は私はファイナル期間中に一つもファイナルが無 く、すべてレポートとin class examだったので、人より一週間早くテストから解放されるというラッキーな状況だったのですが、そのぶんその2週間は寝る間もなく机に向かっていまし た。サンクスギビング中に風邪をひいたため、ファイナル期間中には咳と格闘しながらレポートを仕上げる羽目になりましたが、たった2週間!!と言い聞かせ ながらがんばりました。

いざ全ての課題が終わると、ものすごい達成感でした。勉強した、という達成感を味わったのは大学1年生の学年末 試験以来のような気がします。それからの一週間は、ひたすら友達とランチ、ディナーの連続でした。ここではランチ、カフェ、ディナー、バー以外にすること がないので、友達、特にこのセメスターが終わったら帰ってしまうInternational Studentの友達と毎日外へ出かけていました。課題が終 わって最初の2日間くらいはゆっくりできることに浸っていましたが、3日目からはすることがなくてつまらない・・・と感じるようになりました。友達とのお しゃべりの時間が一番の楽しみでした。

そしてついについに、21歳の誕生日を迎えることができました!誕生日は12月16日、 Finalの最終日だったので、ほとんどの友達は皆Finalを終えており、15日の夜からパーティーでした。とても仲のよかったポルトガル人の友達が 16日に帰ってしまうということで、15日の夜にほとんどのInternational StudentがBrothersに集まり、一緒に過ごせるシャ ンペーン最後の夜を楽しみました。私はDanielsで友達とDVDを見てからBrothersに乗り込んだので、入ったときには12時を回っており、 Technically21歳でした。すると、Cover chargeをとっていた入り口のお兄さんが「Happy Birthday!」といってリス トバンドを巻いてくれて、しかもカバーを払わずに入れてくれました!わーい!!思い出の初リストバンドとなりました。

誕生日当日は、 Cosmoに住んでいるYoung Jaeが私の誕生日のために韓国料理を作ってくれました!Cosmoに住んでいるみんなと、私の友達を呼んで、 Cosmoでささやかな誕生日ディナーを楽しみ、最後にはSharylが焼いてくれたケーキのろうそくを吹き消して願い事をしました☆そのあとは Downtown Champaignへと繰り出し、初めて手にスタンプを押してもらいました。日本にいたら21歳になる、というと「あ~年を取っ た・・・」とネガティブになりそうですが、ラッキーなことにアメリカにいるので、21歳になれたことを本当に嬉しく思います。日本では20歳の誕生日を盛 大に祝いますが、アメリカではそれが21歳。20歳と21歳の誕生日、2回も盛大に誕生日を祝えたこと、そして一緒に祝ってくれる友達がいたことに感謝で す☆

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② カリフォルニア旅行

誕生日の次の日からクリスマスまでのあいだ、ここでの一番の仲良しだったオーストラリアからの留学生BeiNa と二人で、ロサンゼルスとサンフランシスコを旅行しました。ロサンゼルスでは慶應からUCLAに留学している友達にも再会し、その友達のライドのおかげで かなりLAを楽しむことができました。というより、その友達がいなかったらロスでの楽しみが半減していたと思います。ロサンゼルスはイリノイ以上に車がな いと移動が不便です。

ロスの初日はディズニーランド。入り口の目の前のホテルに泊まっていたので、ランドまで徒歩2分という最高のロ ケーションでした。日本を出発する前に行った以来、半年振りのディズニーランドはとても楽しくて、なんと朝の10時から夜中の12時まで、10時間以上 パークの中にいました!ここには小学校4年生のときにきたことがあったのですが、その時のお気に入りの乗り物だったボブスレーがいまだ健在で、なんとなく 嬉しかったです。

2日目は友達のドライブでロスを横断しました。サンタモニカで久々の海に触れ、UCLAのキャンパスを訪れてキャンパ ス内に坂と階段があることに感動し、ビバリーヒルズを通り抜けてロデオドライブでウィンドーショッピング(とてもとても買える値段ではありません!!)、 そして最後はハリウッド、というロサンゼルス満喫の一日でした。しかし、ハリウッド自体はあまり治安が良いわけではなく、夜に女の子二人で歩くのは少し怖 かったです。

ロスに比べ、サンフランシスコは治安もよく交通の便もよくて、町並みもとても素敵でした。ものすごい坂道が急で、少し歩く だけでも意気がきれました。サンフランシスコではバスやトロリー、電車を駆使していわゆる観光地をめぐり、毎日最後にはショッピングをする、という女の子 二人旅としては最高の楽しみを味わいました。

ゴールデンゲートブリッジは想像以上に大きく、荘厳でした。青い空に朱色の橋というコント ラストが目に焼きついています。そして一番思い出に残っているのがアルカトラズ島の刑務所ツアー。アルカトラズは脱獄不可能といわれた刑務所として使われ ていた島で、Pier41からわずか30分ほどのクルーズ。刑務所の外から見るサンフランシスコの町並みは絶景で、あの夜景を見ることができるのに街まで 行くことができないことがわかっている囚人たちの気持ちを考えると、ものすごい絶望感だろうな、というのが容易に想像できました。

BeiNaにとってアメリカ最後の夜は、私たち二人にとって一緒に過ごす最後の日でもありました。8月のInternational Illiniのイベ ントで知り合ってからどんどん仲良くなり、ほぼ毎週金曜日のお昼に一緒にランチをし、アメリカについての悪口や恋バナで盛り上がったのがいい思い出です。 こうしてみると、4ヶ月はあっと言う間だったなぁ、と感じます。別れの朝には電車の改札口で二人で大泣きし、それぞれの道へと別れていきました。こんなに 別れるのが悲しいと思える友達ができたことを嬉しく思います。

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③ クリスマス

せっかくアメリカにいるからにはアメリカのクリスマスが体験したい!という話をアメリカ人の友達としていたら、なんとその 友達がクリスマスに家においで、といってくれたので、お邪魔することにしました。CoryとはInternational Reportingのクラスで 知り合い、日本語を勉強しているということで一気に仲良くなりました。アメリカでのクリスマスは日本におけるお正月のような行事で、家族みんなが家に集ま り、のんびりする、というものです。

そしてクリスマスの朝はなんと7時半起床!!みんなで早起きしてクリスマスツリーの下にあるプレゼン トをあけます。年の若い順に開けていくので、私は4番目!なんとCoryの家族は私のためにも大量のプレゼントを用意していてくれたのです!!シカゴの Snow Dorm、シカゴの観光ガイド日本語版、Illinoisパーカー、本、チョコレートなどなど、本当にいろいろいただきました!!これからクリ スマスは毎年アメリカにいなくちゃ、と思うくらいです。実はCoryはGlobal Crossroadで西村君と同じ寮のフロアメイト。Coryの家に は西村君と一緒に滞在させていただきました。世界は狭いです!!

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④ トルコへの短期留学

クリスマスの次の日から3週間は、イスタンブールへ短期留学をしました。冬休みだけのUIUCのプログラムで、トルコの歴史からEU加入問題についてまでを勉強する、というものでした。

実はプログラム自体はよく構成されていなくて、何度も道に迷ったり、いざ大学についてみると私たちのための教室が用意されていなかったのでカフェテリアで 勉強することになったり・・・と様々なハプニングが起こりましたが、トルコの文化とアメリカの文化を一度に体験できる、という私にとっては最高の環境でし た。トルコでは携帯電話はもちろん、インターネットも思うように使えず、使えるのは国際電話のみ。周りにはアメリカ人の学生とトルコ人しかおらず、日本語 を話せる人はいません。こんなに日本語を話さず英語だけを話す環境にいたのは初めてだったので、とてもいい勉強になりました。

トルコは 今までに見たことのない景色が広がっていました。なぜなら私にとってイスラム教の国を訪れるのは初めてだったので、町中にモスクがある、という光景が不思 議でした。外から見るモスクもとてもきれいでしたが、一歩中に入ると神聖な空気がピーンと張り詰めていて、祈りの場であることを感じました。中にはステン ドグラスやシャンデリアがあり洋風な面もありながら、アラビア語のカリグラフィーなども一緒に存在していて、独特の雰囲気をかもし出していました。ハギア ソフィアはかつてキリスト教の教会として使われており、その後イスラム教のモスクとして使われ、現在は博物館になっている建物です。そこは全てがミックス されていて、時代の流れを感じました。

トルコ料理はとてもおいしかったです。町中どこにいってもケバブだらけ!実はかなり脂っこい料理 もあるのですが、久々に新鮮な魚介類にありつけたり、ロカンタでは様々な種類の料理を手ごろな値段で食べられたり、スイーツの専門店で甘いもの三昧を楽し んだり・・・と、トルコ料理を満喫しました。私は両親が料理屋を営んでおり、両親はその土地の食べ物にとても興味があります。小さい頃から旅行をするたび に両親はその土地ならではの料理を食べ、スーパーマーケットを訪れていました。その影響か私もローカルな食べ物にとても興味があるようで、私のカメラには 気づいたら料理の写真がいっぱい入っていました。食べ物はその国の文化や風習をとてもよく表しているので、とても面白いです。

New  YearはTaxim SquareというNYのTimes Squareのようなところにみんなで出かけました。なんと歩いている途中、ほとんどの女の 子が痴漢にあうというハプニングがあり、みんなトルコ人男性に対してCrap!を連発していました。トルコ文化を学んだ瞬間です。しかし実はトルコと日本 はとても友好的な関係を気づいており、トルコ人は日本人が大好きです。観光地に行くと、ほとんどの商売人が日本語を話せます。英語がほとんど通じない中、 これだけ日本語が通じることに驚き、感動しました。

実は一緒に留学した仲間はまさに「アメリカ人」で、彼らは英語が通じないことに関して フラストレーションを感じているようでした。なんで英語が通じないのか、なぜレストランに英語のメニューがないのか、なぜレストランにフレンチフライがな いのか、怒っている彼らを見て、あぁ、これがアメリカ人は傲慢だといわれる所以なのかな、と感じました。でも彼らとは本当に楽しい時間を過ごすことがで き、シャンペーンに戻ってきてからも2週間に一回くらいのペースで一緒にご飯を食べています。こんなに集中して「アメリカ人」の友達と一緒に生活し、勉強 し、遊んだことはなかったので、とてもいい経験になりました。

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⑤ 新学期

今学期は先学期よりひとつ授業を減らし、4つの授業と2つのお楽しみ授業という形にしました。ジャーナリズムのクラスに関し てはPre-requisitsが多く、専門的な授業はほとんど取ることができません。コンピューターサイエンスなどは日本で勉強した、といえばけっこう 簡単に400番台のクラスを履修することができるようなのですが、ジャーナリズムに関してはここのプログラムにそっていないと履修できない授業が多いの で、来年以降ジャーナリズムを学びたいと思っている方がいたら要注意です。結局一番取りたかったTelevision Journalismのクラスは取 ることができませんでした。さらにReportingという授業もジャーナリズムメジャーの生徒が優先されるので、留学生の私たちはひたすら誰かがドロッ プするまで待つしかありません。私は毎日のようにオフィスに通い、何度もNoといわれ続けましたが、やっとの思いでその授業を履修することができました。 その授業が取れなかったら今学期何をしよう、と全くモチベーションがあがらなかったのですが、そんなときに頼りになったのも友達です。何度も友達に励まし てもらったので、その授業が履修できたときには何人もの友達に報告しなくてはならないという嬉しいハプニングに見舞われました。

今学期 はJOUR400 Reporting1、JOUR480 Investigative Reporting、COMM320 Popular  Culture、SPCM101 Public Speaking、それにBlack ChorusとBalletIIIを履修しました。

こちらのジャーナリズムの授業は日本の授業に比べてより実践的なので、今からわくわくしています。今学期もとことん勉強し、とことん遊び、残りの留学生活を充実させたいと思います。

西村崇さんの2007年1月奨学生レポート

2007年度1月奨学生レポートの最後を飾るのは西村崇さんです。西村さんは学生ならではのバックパック東海岸旅行や、貴重なドミニカ共和国での体験をし てきたようです。どこか緊張感と楽しみの混じった懐かしい気持ちが沸いてきます。どうぞ西村さんのレポートをお楽しみください。

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寒中お見舞い申し上げます。日本でも厳しい寒さが続いていることと思いますが、JICの皆様はいかがお過ごしでしょうか。ここアーバナ・シャンペーンでは 昼間から連日零下を軽く下回る気温が続いていますが、今のところ予想していたほどの寒さではなく、元気に日々を過ごしております。2週間ほど前に新学期も 始まり、今ではすっかり日常生活を取り戻しています。

今回のレポートでは、サンクスギビング休暇から、学期末試験と友人の家でのクリスマス、そして冬休み最大の目玉であったドミニカ共和国での短期留学プログラムにお話していきたいと思います。

(サンクスギビング休暇)

サ ンクスギビング休暇期間は、寮の友人3人(韓国人2人、中国人1人の混成グループ)とともにボストン・ニューヨークを一週間かけて旅行いたしました。約2 週間にわたって課題の締め切りや中間試験への準備に連日終われる日々から解放された後での旅行は、中間試験期間で荒みきった(?)心を癒す上でも好奇心を 満たす上でも格別なものでした。ボストンではアメリカ独立戦争に関わる史跡を辿りながらの市内散策や、MITやハーバード大学といった名門大学のキャンパ スを巡り、ニューヨークではエンパイアステートビルからの夜景を満喫したのを始めとして、自由の女神の見学ツアーへの参加、ウォールストリートやブロード ウェイといった名所巡り、美術館見学、ジャズコンサートの鑑賞、そしてグラウンド・ゼロ訪問…時間と体力の許す限り歩き回り、両都市とも観光ガイドにのっ ているぐらいの名所ならほぼ制覇しました。

そしてこの旅行では、アメリカの大学生がどのように旅行するかということを体験するうえで も面白い日々でした。どこの国でも大抵の大学生というのは旅行するだけのお金がありません(笑)そのため、余計なところの出費を削って価値のあることに資 金を使うというスタイルで私達は旅行しました。例えば、ホテルではさほど広くもないツインベッドを男4人で共有したり、鉄道や高速バスをなるべく利用した りして節約し、その分のお金でボストンの老舗のシーフード店でロブスターを注文するというようにです。おかげで初めて鉄道の中で一晩過ごすなど、様々な貴 重な経験が出来ました。また、一日の終わりにはその日を振り返って観光名所やレストランの質についてレビューをしたり、旅行プランを変更するさいには考え られる選択肢をできる限り挙げてその場でディスカッションをして決めたりするなど、旅行の際にも何かにつけて議論をしたがる彼らの性格を垣間見た気がしま した。

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(学期末試験とクリスマス)

サンクスギビング休暇が終わると、息をつく暇もなく期末試験期間へと突入していきました。大抵のアメリカ人学 生が自宅でのんびりしている期間を旅行に費やしていたわけですから、疲れと1週間近く何も勉強していなかったことによる精神の緩みで、授業再開後の数日は なかなか勉強に集中しない日々が続きました。しかし調子を取り戻してからは中間試験時よりスムーズに課題や試験をこなしていくことができ、最終的に GPA4.0の成績で秋学期を終えることができました。厳しいことで有名なアメリカの大学の授業で好成績を残せたことを嬉しく思う反面、授業中や中間・期 末試験期間中の寮の雰囲気、イリノイ大学の平均GPAが2点台という事実を鑑みると、一般に言われているほどにはアメリカ人の大学生(少なくともイリノイ 大学の学生は)はGPAを気にしておらず、バランスよく遊んだり勉強したりしているのかなと思いました。もっとも、それでも日本の大学生よりははるかに勉 強していますが。

16日に学期末試験を終えてからは、1週間だけ日本に帰って24日にまたシカゴに舞い戻ってくるという忙しい日々を 過ごしました。それもこれもアメリカの一般家庭でのクリスマスを体験するためです。24日、25日は寮の友人の一人であるCory君の家に泊めてもらい、 アメリカのクリスマスを体験させてもらいました(偶然にも、同じJIC奨学生である佐藤さんも一緒に泊まりました)。シカゴ郊外にある広々とした家では、 彼の家族全員が温かく迎えてくれたばかりか、25日のクリスマスの日には私や佐藤さんの分まで沢山のプレゼントを用意してくれていて、知り合って間もない 友人を丁寧にもてなすアメリカ人の懐の深さを感じました。国際線の運行乗務員である私の父が「アメリカ人は、一人一人は非常に気のいい連中だ」としばしば 語ってくれたのですが、その言葉を実感した2日間でした。

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(ドミニカ共和国での日々)

12月26日からは、この冬休み一番のイベントであるドミニカ共和国での短期留学プログラムがスタートしまし た。早朝にオヘア空港を出発し、プエルトリコを経由して夕方頃に首都サント・ドミンゴに到着しました。出発地のシカゴの気温が零下であったのとは裏腹に、 現地の気温は夕方にもかかわらず25度近くあり、高い湿度も相まって到着時には僕を含め参加者達はみなへとへとになっていました(笑)

以 前のレポートでもお伝えしましたが、私のコースのテーマは「Diversity & Integration in the Dominican Republic」で、グローバリゼーションがドミニカ共和国にどんな影響を与えたのか、具体的なトピックとしては、観光産業、移民問題、経済のグローバ ル化と産業・労働環境の変化、文化と人々の関わりなどを学んでいきました。他の国でのコースと比べて、現地の人々の視点からドミニカ共和国を捉えていける よう実体験に重きをおいた活動が多数取り入れられていたのがこのコースの特徴で、しばらくこの地を訪れる必要がないのではないかと思ってしまうほどに、3 週間でまわれる限りの場所をまわりました。サーファーの間では世界10大名所のひとつとして知られるCabarete Beach、モノカルチャー経済からの脱却を図って山間部での農業振興が計られているJarabacoa、観光者相手のセックス産業で悪名高く、夜のバー には売春夫・売春婦がたむろするSosua、過去の独裁者の威光がいまだに残るドミニカ第2の都市Santiago、そして昼夜を問わず町中に響き渡る音 楽にあわせて暇さえあれば踊り始める人々...この三週間の日々で見たこと・感じたことを詳細に書くにはいったいどれくらいのページ数が必要なのだろうか と思うぐらいに貴重な体験の連続でした。

また、アメリカ人の学生達と3週間も寝食をともにした日々も貴重な経験でした。スペイン出身 の教官に率いられた合計20名の学生達は、人種的にも出身地としても多様性に富んでいてまさにアメリカの人種・国籍の多様性を象徴するようなグループでし た。また一人一人にも癖があるのが面白く、例えば、経済学の原理を応用することで世の中の問題を全て解決できると信じているマリオ、ダンスの達人でみんな に踊り方を教えてくれたバネッサ、そして私の一番の友人で物理学専攻ながら社会科学的な議論においても、鋭い洞察力と批判的思考を兼ね備えたデレックな ど、このような彼らと出会えたことを大変幸運に思います。前回のレポートでお伝えしたように、このメンバーで行うディスカッションは時折 ”I totally disagree with your idea!” という言葉が飛び交うほどに激しいもので、最初は慣れるのが大変でしたが、最後の1週間ほどは普通に発言するようになり、やっと自分も一員になれたのかな という思いがいたしました。(ちなみに新学期が始まりましたが、先学期も今学期もこのプログラムに匹敵するだけでの激しいディスカッションを行う授業には 出会っていません。)

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そして、ドミニカでの日々は、彼らの習慣や考え方の特徴を理解するヒントを得るうえで大変意義深いものでした。例えば、こんな事件がありました。プログラ ムが終わりに近づいた頃、何人かの学生がある日の自由時間に滞在場所から少し離れた海岸でのスキューバダイビングを計画したのですが、別の日に予定されて いた果物プランテーション見学の日時が天候の都合で延期となり、その自由時間に見学に行くことになったのです。スキューバダイビングに参加するつもりだっ た学生の一人がその事を告げられると教官に対して猛然と抗議を始め、最終的にはスキューバダイビング組の別行動を承諾させてしまいました。アメリカでは、 自分の要求を実現するために粘り強い交渉が必要な場面に多々遭遇しましたが、まさか余暇の楽しみのために教官相手に真っ向から反論する学生までいるとは思 いませんでした。改めてアメリカ人の押しの強さを印象付けられた出来事でした。

ドミニカ共和国での最後の夜は、みんなで ダンスバーに繰り出してひとしきり踊った後、バーの近くにあった、この国ではポピュラーな雑貨屋券居酒屋のようなお店にてみんなでテーブルを並べ、お酒を 飲みながら歓談したり、店から流れる音楽にあわせて道端でダンスを踊ったりしました。そして、楽しくダンスを踊る友人達を横目にしながら星空をふと見上げ た時に、あることに気がつきました。いま、自分は何て幸せな時間を過ごしているのだろうと。人生はまだまだ先が長いのでいつがピークになるかは分かりませ んが、少なくとも一年前の自分よりは今の自分は遥かに素晴らしい日々を過ごしている自信はある。そう思わせてくれる程に、このドミニカ共和国のプログラム は、更に言えばUIUCで過ごした数ヶ月は充実したものでした。

まるで最後のニュースレターのように締め方になってしまいましたが(笑)、UIUCでの生活はあと4ヶ月残っています。今学期は先学期よりも更に充実させるべく、頑張っていきたいと思います。

最後になりましたが、私達の留学を支援してくださっているJICの皆様方、東京大学関係者各位、そして日本に戻った時に暖かく迎えてくれた家族や友人達に、この場を借りて心から感謝いたします。

2007年1月31日
西村崇
東京大学文学部
行動文化学科社会学専修課程4年